リスク評価と行動経済学の問い

 

笹子 善平

 

 行動経済学という学問があります。人間の行動が必ずしも「合理的」でないことを前提に、その行動原理を解明し、実務課題にも応用しようとするものです。
 例えば、ゲームに参加すれば
   A:参加賞で800円もらえる。
   B:続けて2択のクイズに参加すれば、正解50%で1600円もらえ、外れ50%で0円、
の状況だとします。
 日本人にアンケートを取ると参加賞だけでやめる人が多数を占め、もともと貰ったものだからと賭けにでる人は有意に少ないとの話があります。この人達に、次のゲームに参加させようとすると、u(x)=√x の効用曲線に従い、賞金を3200円ぐらいにして期待値(統計的平均値)で明らかに有利に設定する必要あるという説です。
 従来の経済学ではいかなる場合も経済合理的に行動する「経済人」を想定し、種々の経済モデルは構築されています。このゲームへの応用では、明らかに有利でなくとも同じ期待値なら選択結果の累積実績も同じになると考えます。しかしながら、人は経済合理性では説明できない判断軸で行動するというのです。
 たしかに、心理的に貰ったものは懐に入れて欲はかかないという保守的な行動パターンがあるかもしれません。どうせ貰ったものだから勝負するとの判断を良しとするかは国により文化により違いがあるとも思われます。後続のクイズに参加し1600円になった喜びは、せっかく貰った800円がゼロになる悲しみに比べれば小さいと考えるのが日本人かも知れません。
 しかし、この行動経済学の説明には疑問があり、すべて肯定することはできないと私は思います。まず、今手元の800円を大事にし、将来の1600円のチャンスに見向きもしない、これが1700円や1800円程度では選択を変えない人は、「不合理」な行動判断をしていると必ずしも言えないと思えるからです。
 この行動経済学の問いは、事象が完全に外部から隔離されパズルの解を求めるような問題へのアプローチを、日常生活のなかでのクイズの参加者にあてはめています。これは一面的です。世の中にはいろんなリスクがあります。2択のクイズの正解確率50%がすべてではないと思います。
 例えば、クイズの途中で主催者の気が変わるかも知れませんし(法律的には一方的なプレゼント・贈与は引き渡し前なら取り消し自由です。)、2択の問題が正解者多数続出で主催者が支払えなくなるかも知れません。いわば正解率が市場リスクだとすれば、ゲームのルールが変わるオペレーショナルリスクもあれば、主催者が倒産する信用リスクもあるわけです。800円を持ってその場を立ち去る日本人こそが経済合理的な判断をしている可能性があると思います。
 正確を期するなら行動経済学のアンケートは、ルールは変わらないし主催者は資力あり倒産しないなどくどくどとその他の要因の無リスクの説明をする必要がありますが、これは突き詰めると、800円=1600円/2を正しいと思いますかという問いになり、ただの算数の問題になってしまいます。
 行動経済学の問いの意味は、問題提起として、流されていく人間社会や不安定な人間行動に、自然科学のような法則性を見出そうとすることに限界があるということではないかと思えます。伝統的な経済学モデルのインプリケーションの課題の指摘に留まり、行動経済学自体が自然科学的なモデル化すれば同じ限界に突き当たるだけです。
 翻ってリスク管理の世界で言えば、人間が行うリスクアセスメント・評価やそれに基づくリスク対応の判断は、とても危ういものだと自覚しなければならないと思います。フレームとして置いている前提を持って、一切前提を置くことの出来ない現実に向き合うことだとわかっている必要があります。数値化できる要因がフレームに入りやすく、オペレーショナルリスクなど数値化が難しい要因は入っていないことを自覚すべきです。
 わかりやすい例をあげましょう。「カボチャの馬車」事件というスルガ銀行の不祥事が新聞を賑わしました。事件自体は、ローンの実行時に文書偽造などの不正が行われていたものですが、内容は社会問題になっている家賃保証付アパートローンのシェアハウス(複数人を対象に大きな貸家を賃貸する。)版です。アパートなどの建売会社等がその後の家賃収入を一括して保証し、家賃収入でローンの支払い後も収入が保証される収支予定を示して販売しますが、その保証は一定期間でその後は収入が激変し、大家の持ち出しや自己破産になるというものです。
 これも保証期間内の収支という限定されたフレーム内でのみ「合理的」な話をネタに、ローンによるアパート建設プロジェクト全体を正当化し販売する「手口」です。
 うまい話しは疑ってみるという伝統的常識を、「不合理な人間行動」とするのなら、うまい話の前提・フレームを明確化し、限界を意識した上で、入ってないリスクを包括するアセスメントの実施が、リスク管理に知見のある人間の「合理的行動」としたいと思います。