科学技術リスクの観点でみた 新型コロナウイルス感染症が意味すること

(公財)未来工学研究所 主席研究員

 

多田浩之

 

 

 

世界経済フォーラム(World Economic Forum: 以下WEF)は、2006年から、毎年1月に開催される年次総会(通称ダボス会議)に合わせて、世界全体として直面しているリスク(グローバルリスク)について分析・評価した報告書「The Global Risks Report」を発表している。当該報告書では、世界の学術界、政府、国際機関、NGO、企業などのリーダーへのアンケート調査を基に、今後10年間に世界で発生するリスクの可能性と影響度について分析・評価を行っている。

 

2017年1月に発表された報告書(The Global Risks Report 2017 12th Edition)では、WEFにおける約750名の専門家や意思決定者へのアンケートを基に、第4次産業革命に伴う、各種新興技術(エマージングテクノロジー)の発展が及ぼすグローバルリスクについて調査・分析した内容が公開された。

 

当該報告書には、第4次産業革命の鍵を握る新興技術として、AI・ロボット工学、3次元プリンタ、先進材料・ナノ材料、バイオテクノロジー、ニューロテクノロジー、宇宙技術等を含め、12の技術が挙げられている。これら12の技術のうち、バイオテクノロジーは、AI・ロボット工学と並んで、①便益のレベルと負の影響のレベルがともに際立って高いこと、②幅広い分野でグローバルリスクを悪化させるレベルが高いこと、③より高いガバナンスが求められること、が示されている。

 

このように、バイオテクノロジーはAI・ロボット工学と並んで、将来にわたり人類・社会に与えるリスクが非常に大きいということが認識されているが、これは、遺伝子工学等の発展によって、最近、「合成生物学」と呼ばれる学問が急激に進展し、人間が生物システムに直接手を入れることが可能になってきたことに起因している。

 

合成生物学とは、バイオテクノロジーにおける、生物構造体を改変・創出することを可能にするための、一連の概念、アプローチおよびツールを意味する。合成生物学の定義については、未だに普遍的に合意されたものは無いが、殆どの場合、「人工や天然の構成要素の合成・組立てによる新しい生物学的システムの創出」という共通の概念に触れている。

 

合成生物学における生物システムを創る研究のアプローチには、①既存の生物システムを改変していくトップダウン型と、②部品を集めて、試験管の中に入れて人工の生命を創っていくボトムアップ型の2つのアプローチがある。合成生物学は、産業応用を前提としたバイオエンジニアリングと位置付けられており、もはや従来の生物学とはかけ離れたものになっている。

 

合成生物学は、合成化学の進歩が19世紀と20世紀の現代社会と経済構造の形成に大きな影響を与えたように、健康・医療、パーソナルケア、環境保全、農業、産業(エネルギー、鉱業、化学品、材料等)等を含めて、幅広い分野に大きな利益をもたらすことが約束されている。最近では、アマチュアの研究者が、自宅の室内で、CRISPR-Cas9のような最新の遺伝子編集技術を使って、微生物の機能の改良等に関する実験を行うことができるDIYDo It Yourself)キットが利用できる状況になってきている。

 

201811月に、中国の研究者が、ゲノム編集を施した双子の子供の出産を発表し、生命倫理の観点から大きな問題を引き起こしたが、合成生物学の技術が加速度的に普及し、そのDIY化が進むにつれて、合成生物学が人間や環境に及ぼすリスクが顕在化されつつある。特に、米国の全米科学・工学・医学 アカデミー(NASEM)は、バイオセキュリティの観点から、既存バクテリアや病原ウイルスの毒性強化等のような合成生物学の悪用リスクに関する懸念を表明している。

 

現在、パンデミックを引き起こしている新型コロナウイルスは、自然発生のものであるという見解が多いが、その根拠は明確ではなく、実験室で生まれた可能性も排除すべきでないとする論文が本年5月に発表されている(Shing Hei Zhan, Benjamin E. Deverman, and Yujia Alina,ChanSARS-CoV-2 is well adapted for humans. What does this mean for re-emergence?bioRxiv, May 2020.)。この論文は査読を受けていないものの、新型コロナウイルスの自然発生説に関して確固たる証拠が無いことも事実である。実際、「新型のウイルスが自然発生でできたものか否か、遺伝子改変により創り出されたものか否かを科学的に特定することは極めて困難」、「大学の研究室レベルで、遺伝子編集により新型コロナウイルスを創り出すことは十分可能」という見解を持つ、合成生物学のトップ研究者もいる。

 

このように、新型コロナウイルスの出現とその世界的な影響を鑑みた場合、合成生物学という、素人には理解しにくい新しい技術の急激な発展がもたらす潜在的なリスクとその影響がUnknownであるという重大な事実をしっかりと認識し、各方面で、合成生物学が人間と社会に及ぼすリスクと影響について本格的な検討を進めていくことが必要ではないだろうか。

 

以上